会場を出てから、ずっと西さんのことを考えていた。
会場を出てから、ずっと西さんのことを考えていた。
あの人がわたしだったら、わたしだったなら、どうすればいいのだろう。
西マサトが演じる中年男性・西さんは、冒頭から自分の人生を下品な言葉で嘆き、自殺願望をシャウトする。その心からの叫びに震えていると、
(らくに しねる くすり)
無機質な声が降ってくる。
この時、西さんは、思っているよりも「狂気の淵に佇んでいる」のではないかと気づいてしまい、恐怖と笑いが同時にやってくる。どうしようもないものを見てしまった時、人は沈黙か爆笑の二択を突きつけられる。
おそらく、この西さんの役には、西マサト本人のパーソナリティが大きく反映されている(確認は取っていない)。それゆえか、鳥肌が立つほどのシャウト、夢の中に救いを見出した時のご機嫌な振る舞いなど、率直に申し上げると統合を欠いた人(結末間際で、明示される)にしか見えず、非常にリアルだなぁと震えが止まらなくなった。
しかしながら、ステージを生き生きと闊歩し、心からのグッドスマイルを振りまきながらハイに七転八倒する姿には、破壊的なパワー(方向性はともあれ)があり、狂気に対するある種の真摯さとチャーミングさがあり、嫌悪感よりも魅力が勝っていた。
個人的には、インセルやパラノイアに憑かれた人々と向かい合うより、ずっと楽しかった。(一方的にセーフティな客席から眺めているからかもしれないが)。
西さんは、知り合った女性と動物園デートをして、自分本位な言動の果てに関係性を閉ざされてしまう。しかし、その前に、お互いにもっと、関係性を深めるとか出来なかったのだろうか。以前の彼氏を吹っ切る為のチャンスとして、西さんに賭けたようにも受け取れた。
もし、西さんが救われるとしたら、こうしたトライアル&エラーを繰り返しつつ、自分の趣味や馴染みの店を開拓するなりして、新しい人間関係をイチから構築できれば良かったのだろう。あるいは、周囲の関係性を見直して、お互いに真摯に話し合うべきだったか。どちらにせよ、救われるとは何なのかを定めたほうがよかったに違いない。
ところが、西さんは自身の失望と自殺願望を振りかざすことを覚えてしまい、別の女性からも関係性を拒絶されてしまう。そして、そのことを顧みなかったことで、彼は報いを受けることになる。
ここまでの西さんに、わたしは親近感を覚えた。少なくとも、わたしの西さんに近い部分やこれまでの行いを振り返ったし、西さんの周りの「面白い」人たちの面白くないところも、心当たりがいっぱいあった。笑うことはできる。だけど、不安も残される。
わたし、または、あいつはどうだったっけ……と。
「わたし、アラサーでも独身男性でもないから、西さんじゃありません」というのは、甘い。
狂気への道は、どこからでも歩いて行ける。
言語や国境や性別は、何の逃げ道にもならない。
結果的に、死後の西さんは、神さま(のふりをした自分自身)とコミュニケーションを取ることで、冒頭の下品な言葉そのままに、いつまでも墓の中で自分を愛することに成功するのであった。無情な状況に、黒い哄笑が漏れてしまう。
それは、救いではない。
鏡の中の自分と、ひとり遊びをするようなものだ。
永遠に。
西さんのように、誰かからの愛や承認を求めることに固執してしまう姿は、わたし自身にも深々と突き刺さる。だから、客席で笑ってしまわないと、先に進めない。そうやって、笑い混じりに自分を見つめ直して、へばりついた不安を剥がしながら、少しずつ修正を繰り返すことでしか生きていけない。
それは、狂気の淵に佇まない為の心掛けでもある。
わたしが西さんのようになった時、どうやったら自分を笑うことができるのか。
その答えはまだ見つかっていない。
=====================
クロイ ハコタロウ
京都でひっそりと活動する怪談団体のメンバーのひとり。今年はいろいろやります。