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2023年2月:京都ロームシアター×京都芸術センターU35創造支援プログラム“KIPPU”として新作本公演を予定。

劇評③依田那美紀 氏

③依田那美紀 氏(1/23(土)14時回・19時回観劇)

「ダメなおれたちの絶望」を拒否するということ
 『救うか殺すかしてくれ』、と名付けられたこの作品を、「中年男性の焦燥と葛藤をめぐる物語」、だなんて絶対に言ってやるもんかと思った。それじゃ、「男たちの物語」の背後で、影のように、亡霊のように、使われ、捨てられ、物語の弾みとしてもみくちゃにされてきた何億人もの女たちが報われない。大げさかもしれないけれど、でもそのくらい、この物語を「男たちのもの」にはしたくはない。
 物語の主人公は紛れもない「男性」で、その生活には何人かの女たちが行き来し、交わるかと思えばすれ違い、離れていく。それだけだ。物語のラスト、西に致命的な暴力を加え、文字通り終末へと導くのはやはり「男たち」だ。そこにいくら「間接的」に加担していようが、女たちはあくまで「間接的」な媒介物で、西をこの世界から排除するための劇的なワンシーンにおいてもまた、彼女たちはその場から排除されている。
 ではこの物語もまた、「男たちの物語」のために、女たちを物語の弾みとして「利用」しているのか。「女たち」は「男たち」がいかにダメで愚かであるか、そのことを証明する材料に過ぎないのか。

***

 主人公の中年男性の西は、日々「クソ仕事」に従事し、恋人はおろか女性と話す機会もなく、オナニーして寝起きする日々に希死念慮を抱いている。私たちはこの作品の終盤、そんな西の人生に起こった極端な「破滅」を見せつけられることになる。その破滅はあまりにも残酷で、唐突で、見るものはそのことに一瞬戸惑う。だが同時に、どこかで彼の結末を、「まあ仕方ないか」と思わせられてしまうのだ。この作品は、彼の残酷な境遇を決して「不条理」に感じさせないのである。
 その理由の一つが、彼の女性たちに対する振る舞いである。
 この作品に出てくる女たちはみな一様に、そんな西に「優しい」。ある女の子は西が喜ぶ文句をこれでもかというくらい浴びせかけ、思う存分西を甘えさせる。ある女の子は奥手な西を少し強引にリードし、西の中途半端なうんちくを聞き入れ、文句も言わずに笑顔で受け止める。ある女の子は道端で泣き叫ぶ西に声をかけ、心配し、救いの女神としての役割に従事する。「早く死ねる薬」がチラつくほどの情緒不安定を抱え、性的に飢え、自己中心的な面を持つ西を、彼女たちはひたすら受け止めている。そうすることがさも当然なことであるかのように。
男性学研究者の伊藤公雄は、男性作家が描く女性像の3パターンとして、性的欲望を満たすための「娼婦」、崇めたてるべきあこがれの対象である「聖女」、甘えの対象である「太母」を挙げた。

「男たちにとっての女の位置づけが、つねに上からの力関係においてのみ把握されているわけではない(…)男性たちは「自立」しているという表向きのポーズや思い込みのある一方で、しばしば女性に対する強い精神的な依存によって自己を支えている」(『男性学入門』p,110)


受け止めて欲しい、お世話されたい、肯定されたい。男性たちはそういった自分たちの欲望を女性に押し付け、それを叶えさせている。これもまた、「甘え」に基づく「下からの支配」であるといえるだろう。
 まさにこの意味において、西は彼女たちに対して支配的である。彼は「死にたい」「どうせ俺なんか」といったひねくれた言葉を繰り出すことによって、彼女たちに存分に甘えている。自己否定を人質に、彼女たちの「ケア」を引き出しているのである。
 伊藤を始めとする男性学研究が自己批判的に追求してきたこの問題は、「男性による女性へのケア依存」として、フェミニズムが長い歴史の中で絶えず批判してきた問題であった。フェミニズムは男性を批判し、女性たちにこう呼びかけた。「細やかな部分に気づくのが女性らしさだ」とか「女性は共感力が高い生き物」というフレーズをふざけんじゃねえと蹴り上げてしまっていい。男性の粗雑さと暴力性を寛容に許し、受け入れ、あらかじめ黙殺される前提で“細やかな”尻拭いをさせられる「女性らしさ」なんか拒否していい。
 彼は破滅的な人生の結末を迎えるだけでなく、ケア依存した彼女たち全員から見捨てられてしまう。だから私たちはこう笑うことができる。「あんなふうに女性に依存して、ないがしろにしたのだから、こうなっても仕方ない。」
 だが、わたしたちが西の境遇に感じる「仕方のなさ」は、西自身を観察するわたしたち自身の目と判断で掴み取ったものではない。この「仕方のなさ」は、この作品が周到に用意したものなのだ。
 ここで、西の「救いの女神」について説明しなければならない。彼は、夢の中で出会った理想の女の子「夢ちゃん」から「もう二度と夢に出ない」と別れを切り出され、彼女を失った悲しみから道端で泣き叫ぶ。誰もが見て見ぬ振りしている中で、ある女性は、彼の姿にかつての自分を重ね、心配して声を掛ける。以来西が死にたくなったときは電話し合う仲になる。彼女に「救われた」と公言し、精神的に多く依存するようになった西にとって彼女は、まさに「救いの女神」だ。
 頻繁に会うようになった二人だったが、最終的に彼女の彼氏の「心配」によって会うことを止められ、彼女の方から関係を打ち切られる。彼女に「もう会えない」と謝られた西は、狼狽し、「最後に思い出を作ってくれ」と懇願し、それすら拒否されたことで西は、「救うか殺すかしてくれ!」と泣き叫ぶ。女の子は、ぱっと後ろを向き、その場を去り、西を見捨ててしまう。抵抗することもなく、ただただ見放すのだ。
 その後、場面が変わり、いくつかのシーンが挟まれた後、序盤に西と「つまらない」動物園デートをした彼女が舞台に登場する。デート以来彼と縁を切り、一切の関係がなくなった彼女が、先輩を前に西のことを振り返るシーンになり、彼女はこう語る。

 「(西は)私に、救わせさせようとしてたんです。わかんないけど。(…)で、一緒にいるひとが救われたがってたら、私は救ってあげなくちゃいけない気持ちになるじゃないですか。私だって救われたいのに、西さんばっかり救われようとして、なんかそれが嫌だなあって思ったんですよ。西さんって、人のこと好きとかってないんじゃないかと思うんですよ。いや、「好き」っていう気持ちと、「俺のこと救って欲しい」がごちゃになってるっていうか。「俺のこと救って欲しい」って気持ちのことを、「好き」ってことにしてると思う。(…)私はちょっとそれしんどいなって…思いました。いや、ないな。最悪です。それ、一番ありえないです。」



 このワンシーンは、「彼女が西をしんどいと感じていた」という事実を観客に知らせる効果よりもむしろ、西と道端で出会った「救いの女神」との関係性を批評する意味合いを持っている。「それが嫌だ」という彼女の言葉は、フェミニズムが指摘したような、西の態度が女性に負担を負わせる、害のあるものとして見ることの助けになっている。つまりこのセリフは、「救いの女神」に見捨てられてしまう西のことを、自分の寂しさに精一杯で相手を見ず、自分が救われる事ばかりを考えている、いわば「見捨てられても仕方ない男」として意味づける作用を持っているのである。
 私がさきほど「用意周到」という言葉を使ったのはそれゆえだ。あまりにも説明的に作用しすぎるこのワンシーンは、西に対して「そうなって仕方のない男」以外の可能性として見ることを先回りして阻害してくるのである。いわば、この説明によって、私たちは彼への見方を矯正される。
 そしてそれが私には、なにかを焦って塗りつぶそうとしているように見えるのである。
 ここで注目したいのが、この作品が演じ落としているあるワンシーンだ。この作品全体通して、西が苦しみにのたうち回る姿はこれでもかというくらい微細に演じられている一方で、ある部分については、大胆に描き落とされているのである。
 それは、西とあの「救いの女神」の関わりについてだ。彼ら二人が、実際にどのように関わり合ったのか。彼らは共にどのような時間を過ごしたのか。そのことについてだけは、「彼女からの一方的な視点」に基づく説明のみで、その状況の上演は「省略」されているのであるのである。

「私とおじさんは、その日はご飯だけを食べて帰りました。私が行ったこともないような高そうなお店でした。本当に他愛もない話をして、お酒を飲むこともなくて、そういう雰囲気も一切なく、ただただ楽しいだけの時間を過ごしました。(…)数日後はまた連絡が来て、また会うことになりました。その日はずっと行きたかった動物園をリクエストして、動物園に行きました。(…)動物は、ラマが可愛かったです!すっごい美人なラマがいて…見とれてしまいました。」



 真っ暗な舞台にスポットライトが当てられ、彼女は観客にこう語りかける。彼ら二人の普段のかかわり合いがどのようなものであったのかについて観客が与えられる情報はこれだけで、観客は西と彼女の「ただただ楽しいだけの時間」を決して見ることはできない。
 しかし彼女が語る「ただただ楽しいだけの時間」が嘘でないことは、彼女が、あの彼女とは違い動物園を面白がれる人物であること、トラなど激しい肉食獣ではなく、小さなラマに興奮できる少しずれた感覚の持ち主であることからもわかる。彼女と西が、互いに肩の力を抜き、よっぽどリラックスして、話したいことをただ話す、自然体の関係を築けていることを想像させる。
 だがこの演劇は、決してその過程を描くことがない。描くどころか、結末で彼の身に起こる極端な破滅によって、その事実を塗りつぶし、なかったことにしようとしているのだ。
 ここには、ある欲望が働いているように見える。それは、“「どうせ俺なんか」と自分を笑いたい”という欲望である。
 他者を媒介にした「ただただ楽しいだけの時間」ほど不安定なものはない。コントロール不可能な他者の存在を前提にした喜びは自己の安定性を脅かす魔力を持つ。自閉することは許されず、刺激を身のままに受け止めることを余儀なくされてしまう。つまり、女神である彼女から西が見捨てられるという筋書きもまたその不安定さを拒否したいという恐れの反映であると同時に、 “「ダメであること」によって「安定していたい」”という欲望そのものなのではないだろうか。
 だから、最終的に彼は、最も残酷な仕打ちを受けることによって、破滅という形で最上の「安定」を得ているのである。そして気付かされる。実は彼女たちは「見捨てる」という筋書きを歩むことによって、その欲望を叶えさせられているのである。
 「優しい人であってほしい」「可愛く愛嬌深くあってほしい」、そういった欲望を押し付けられ、主体性を奪われることを問題視することはわかりやすく明快だ。だがここにある欲望はもう一歩ねじれている。彼は、「残酷に自分を見捨てるような人であって欲しい」という欲求をまた彼女たちに押し付けているのではないか。
 その問題性は、極めて見えにくい。「残酷に自分を見捨てるような人であって欲しい」=「残酷に見捨てられるような自分であって欲しい」、そう願う誰かが愚かであればあるほど、その関係が、非対称であればあるほど、誰かのなにかを置き去りにしたまま、その願いはたやすく正当化されてしまう。「下からの支配」を始めとする様々な「正しさ」を頼りにして、私たちは、彼の境遇を「仕方のないこと」として受け入れ、笑ってあげられてしまうのだ。
 そうやって「笑ってあげる」ことこそが、むしろ西の欲求をきっちりと叶えてあげることに他ならない。それこそが、「ダメなおれたちの絶望」を安定させる最後のひと押しなのである。

***

 ではそれを叶えてあげることを放棄したい私が、彼の願いを叶えさせられたくない私ができるのは、この作品が極端な破滅によって塗りつぶそうとしていたものをしつこく暴き続けることだろう。
 彼が、数日間、数時間、「ただただ楽しいだけの時間」を過ごしてしまった、というその事実。それは、「ダメなおれたちの絶望」を安定させるにはあまりに致命的な塗り残しだった。そしてその塗り残しを“晒した”のは、紛れもない「女」の独白なのである。
 この物語の中で彼女は一人、ささやかに、彼らの「安定」を揺さぶっている。“二人”が、「ただただ楽しいだけの時間」を過ごしてしまったというその事実によって隙間をこじあけ、彼の“不幸な安定性”を堂々と脅かしている。彼女は、「ただただ楽しかった」のだ。それはもしかしたら、西に対してあの男が下した「暴力」以上に不穏で、予定不調和な事実なのではないだろうか?
 だから私はそこに加担する。まるで揚げ足取るように、問い詰めてやりたい。安定した絶望と、極端な破滅に心地よく安住しようとしているその目の前で、「でもさ、あんときは楽しかったんだよね?」ってしつこく言いつのってやりたい。
 彼らの安定性をひたすら脅かしてやるということ。「ダメなおれたちの絶望」という安定性をひたすら拒否し続けること。それが、この物語を「男たちのもの」にさせないための、最後の足掻きだと思うのだ。

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依田那美紀
1993年生まれ。『生活の批評誌』編集長。京都市在住。普段は市内某所にて週4.5勤務。